フォレストサイドハウスの住人達(その23)
15 フォレストサイドハウスの住人達(その23)(748)
鶴岡次郎
2018/12/26 (水) 16:39
No.3189
二日後、咲江から村上に電話連絡がありました。妊娠二ケ月に入っているとの診断だったのです。昨
夜、時差のある地域に出張中の坂上夏樹にも連絡を入れたと咲江は村上に教えました。坂上は単純に
喜んでいたそうです。

一人、アパートで村上は眠れない夜を迎えていました。両親とは早い段階で死に別れ、育ててくれた
親戚とも、18歳になる頃に、縁を切った状態で、今まで、一匹オオカミのように生きて来たので
す。妻を持つ機会は何度か訪れたのですが、気がつくとその現実から村上はいつも逃げていたので
す。

咲江のお腹に宿った小さな命が、自分の子供である可能性が残されていると知った時、村上は奇妙な
陶酔感の中に居ました。そして、その陶酔感が覚めると、大きな喜びが村上の中に湧き上がっていま
した。誰もいないアパートの一室で村上はいつまでも笑みをたたえて宙に視線を泳がせていました。

翌日から村上は人が変わったように働き始めました。以前お世話になった顧客を訪問してまわり、食
品や店舗内の備品の販売を復活すると宣伝したのです。不運な不渡り手形を掴まされて倒産寸前まで
追い込まれ、店の規模を絞って不動産の斡旋業で息を繋いできて、これでいいとあきらめていた村上
だったのです。

昔の村上を覚えていてくれる顧客も結構多くて、誠実な仕事を残してきた村上の復帰を歓迎してくれ
るお客が多かったのです。

朝5時には起きだし、夜11時近くまで働きました。わずかな期間に昔の規模にまで村上の商売は戻
りました。以前の従業員二名を含め、社員5名を抱えるまでに復活したのです。

妊娠初期段階の咲江は、大事をとって村上の店を辞めて、自宅で、静養しています。昼間、忙しい仕
事の合間を縫って、週一ほどの頻度で、村上が咲江のマンションを訪れています。身籠って以来、咲
江も以前のように求めませんから、村上と咲江の間の性的な関係は少し控えめです。咲江とお腹の赤
ちゃんの元気な姿を見るためだけの目的で、坂上家を訪問することが多くなっています。もちろん、
坂上夏樹、そして小学生の長男、幼稚園生の長女も、みんな赤ちゃんの誕生を楽しみにしています。

翌年の春、男の子が生まれました。元気な子で、宗男と名付けられました。血液型はA型でした。坂
上、村上ともにA型で、咲江はB型です。詳しい血液検査をしないと父親の判別ができない状態で
す。当然のことながら、生まれた子は坂上家の次男として入籍されました。

咲江も、そして村上も詳しい検査をしてまでも、実の父親捜しをする気がない様子です。坂上はこの
件に関しては何も言いません。生まれた子を我が子と信じているのです。

咲江と村上の仲は、出産後も変わらず続いています。子供が出来たことで、咲江の激しい情欲は影を
潜め、それなりの性交頻度で満足できるようになっています。月に二度か、三度、昼間、坂上が出勤
した後を狙って、村上が坂上家を訪れるのです。村上が坂上家を訪れる目的は、咲江を抱くことが目
的なのですが、最近は赤ちゃんの傍に長い間座っていることが多いのです。村上が来たことを咲江は
夫に必ず報告しています。

赤ちゃんの誕生で一番変わったのは村上です。がむしゃらに働き始めました。わずか5年の間に、会
社規模を5倍に伸ばしました。銀座の同業者の中では一、二を争う会社に成長させたのです。押しも
押されもしない地元を代表する企業です。

「村上社長・・・
良くここまでにしましたね・・、
一時は本当に心配したことがありました・・」

「ありがとう・・、皆さんのおかげですよ、
しかし・・、うれしいね・・、
子孫に譲るべきものが持てたのは・・・
俺は、そのため、ここまで頑張ってきた…」

仕事関係の親しい人との酒席で、村上はよくこんな会話を交わします。村上が未婚で、子供が居ない
ことを知っているその人は、間違いを正すことはしないで、笑いながら村上の肩をたたき、「良かっ
たね・・、よくここまで頑張った‥」と、何度も、何度も頷くのです。

果たせなかった夢、息子に会社を譲る夢を、酔った時くらいは本気で考えるのもいいことだと、村上
の気持ちにその人は寄り添っているのです。そんな時、村上は必ず、涙を流しているのです。その脳
裏には、幼稚園に通う咲江の次男、宗男の顔が浮かんでいるのです。宗男の口元が自分そっくりだ
と、村上は密かに思い、肌身離さず持ち歩いている宗男の写真を見ては、ひとりでほくそ笑んでいる
のです。