フォレストサイドハウスの住人達(その11)
53 フォレストサイドハウスの住人達(その11)(365)
鶴岡次郎
2015/09/10 (木) 15:34
No.2745

神本が・・、多分本人はそのつもりはなかったと思いますが、止めの刃を山口の胸に深々と差し込
みました。

「千春は私の命そのものです・・。
今こうして曲りなりに生活できているのは全て彼女のおかげです・・、
おそらく彼女なしではこの先、私は一瞬たりとも生きてゆけないと思います・・・、

だからと言って、無理やり彼女を私に縛り付けておくつもりはありません・・
彼女が去ると言えば、私は黙って頷くだけです・・、
多分・・、その後・・、私は一人静かに命を絶つと思います・・・・」

「・・・・・・・・・」

驚くべき覚悟を、一つ間違えば戯事ともとられかねない覚悟を、何事もないように平然と妻の浮気
相手である若い山口に語っているのです。驚きの表情を隠さないで山口は神本を見つめていました。

〈千春を奪うなら・・、
俺を殺してからにしろ・・・〉 

言外にそう言っている・・・と、山口は受け止めていたのです。凄まじい殺気さえ山口は感じ取って
いたのです。

恐ろしく時代がかった、こっけいにも取れる言葉ですが、聞いている山口には彼の言葉が不自然に
は思えないのです。千春に心底惚れている山口だからこそ、千春を神だと讃え、千春は自分の命そ
のものだと、語る神本の気持ちが良く判り、千春との別れは、それは自身の死を意味すると言う神
本の言葉をその言葉どおり受け入れることが出来たのです。完全な敗北を山口は噛みしめていまし
た。

「長い話になりましたが・・、
どうでしょう・・、山口さん・・・、
千春のことはあきらめて、許していただけますか・・・・」

「こちらこそ、ご迷惑をかけました・・・。
人には話せないお二人の秘密までお聞かせいただきありがとうございました。
これから先、このことでご迷惑をおかけすることは絶対ないと思います・・。
何時か・・、お二人のような結婚が出来ればと思っています・・。
それでは・・、これで失礼します…」

山口が立ち上がり、一礼して、大股で店を出て行きました。一度も振り返ることなく・・・。

それ以降、山口は幸恵の店にも、アパートにも顔を出さなくなりました。『俺の女に手を出すな』
と、少し凄みを聞かせたと神本は幸恵に報告したそうです。

勿論、山口が口を開かない限り、二人の男が喫茶店で対決した真相は誰も知らないのです。そして、
おそらく、山口に語った神本の話・・、妻が突然消えて以来5年間、神本は千春への愛を貫き通し
たこと・・、そして、妻もまた、夫のひたむきな愛に応えて、5年後には夫の元へ戻ってきたこと、
こうした事実を山口以外、誰にも話したことがないと言う神本の話に嘘はないと思います。そして
おそらく、これから先、神本が夫婦の話を人に話すことはないと思います。人妻に真剣にほれ込ん
だ山口のひたむきな気持ちに報いるため、山口は重い口を開いたのです。

神本の話を聞いて、互いに信じあう男と女には怖いものは何も無い、真剣に惚れると言うことはど
んな時でも相手を信じることが出来ると言うことだと、山口は確信できたと思います。これから先、
山口は神本とその妻の深い絆を事あるごとに思い出すでしょう、その思い出のストリーが山口の心
を和ませ、勇気づけることになると思います。