フォレストサイドハウスの住人達(その11)
50 フォレストサイドハウスの住人達(その11)(362)
鶴岡次郎
2015/09/07 (月) 15:51
No.2742

医者の沈黙を見て、女はその場に居られないほど自身の軽率な言葉を後悔していました。娼婦の
素性を医者に気付かれたと女は思っているのです。一番恐れていた結果なのです、結婚前の一時期
そうした前科があるだけに、かなり動揺しています。

もう少し慎重に考えれば誰でもわかることだったのです。普通の暮らしをしている家庭の主婦がい
かに夫の命を助けるためとはいえ、初めて出会った男に体を差し出すことなど、絶対、起こり得な
いことなのです。そんなことが出来るのは日頃から体を売る商売をしている女に限られるのです。
そのことに千春もようやく気が付いているのです。

「先生・・・、
どうして・・・、何もおっしゃらないのですか・・・、
きっと・・、
こんなことを誰にでも言っている汚い女だと思っているのですね・・」

消え入りそうな声で千春はこれだけの言葉を絞り出し、恥ずかしさに堪えられないのでしょう、視
線を床に落としています。上から見ると彼女の首から肩にかけて、肌が朱色に染まっているのです。

その光景が・・、消えゆくような哀れな女の姿が・・、男の心を揺り動かしています。

夫を助けることだけ考えている女が、冷静な判断が出来ないまま、自身の体を差し出すと言う暴挙
に出たと医者は受け止めていました。愛する人が瀕死の重傷を負った時、人は時としてとんでもな
い言動をするものだと、それまで何度もこうした修羅場を経験している医者は千春の言動を左程異
常なものだととは思っていませんでした。まして、目の前にいる上品な女の素性が娼婦などと思い
もしていなかったのです。

そんなわけですから、女の甘い誘いをむげに断るわけにも・・、かといって、好意を受け入れるわ
けにもいかず、医者はただ黙りつづけるつもりでいたのです。そうすれば、いずれ冷静さを取り戻
し、女が自分から誘いを引っ込めるだろうと思っていたのです。

しかし、どうやら女は自身が娼婦だと思われたと誤解している様子なのです。これは医者の予想外
の出来事でした。哀れな女の姿を見て、このまま黙っているわけには行かないと、医者はようやく
口を開くことにしたのです。

「ああ・・・、いや・・・、決して・・、
汚い女などと思いません・・・。
それどころか、あなたのご主人を思う気持ちに、唯々、感動しているのです・・・。

私にはあなたが女神に見えます・・。
ご主人は幸せ者ですね・・・・
男なら、一度はそれほど、愛する人から想われたいものです・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

医者の言葉を聞き千春は言葉が出ないほど喜んでいました。

〈ああ・・・、よかった・・・・、
先生は私を娼婦と思っていないのだ・・・〉

千春は涙を浮かべて医者を見つめていました。そして、次に千春がとった行動は、おそらく彼女自
身も予定していなかった、本能的な動きだったと思います。

一歩近づき、医者の首に両手をかけて、ゆっくりと朱色の唇を医者の唇に押し付けたのです。医者
はただその場に棒のように立って、彼女の行為を受け入れていました。女はつま先だって背の高い
医者の唇に体を合わせています。彼の手はしっかりと女の腰を支えているのです。

「ベストを尽くすことを約束します・・・。
奥様のためにも・・・・、最善を尽くします・・・
奥様も気を強く持って、旦那様を励ましてください・・・
ここで奥様が倒れたら、元も子もありませんから・・・・」

千春の肩に両手をかけて、医者は女の顔を覗き込むようにそう言って、潔く背を向けて、部屋を出
て行きました。その足取りは軽やかでした。

〈ああ・・、先生・・、
口紅を付けたまま・・・、
でも・・、誰も気が付かないはず・・・〉

医者の背に、深々と頭を下げながら、女はいたずらっぽい笑いをかみ殺していました。全てをやり
つくした満足感が女の表情に現れていました。