フォレストサイドハウスの住人達(その11)
49 フォレストサイドハウスの住人達(その11)(361)
鶴岡次郎
2015/09/05 (土) 15:18
No.2741

「今の私には・・・、
お礼として差し上げることが出来るのはこの体しかないのです・・
私にとって夫の次に大切なものをささげて、お願いしたいのです。
主人をお願いします・・・」

「・・・・・・・・・」

医者はここでもただ黙って、女を見つめているのです。女は当惑していました。医者の反応が判ら
ないのです・・、いえ・・、医者が沈黙している理由は女には良く判っているのです。この作戦を
実行すると決めた時、一番恐れていたことが今起きていると女は悟っているのです。


治癒する可能性は高いと言って医者は千春をほっとさせたのですが、千春はその言葉を鵜のみには
していませんでした。生死の可能性は楽観的に見ても、半分半分だと思っているのです。カギを
握っているのはこの医者で、彼が能力と誠意を尽くして治療にあたってくれることが、夫の命を救
う唯一の道だと思っているのです。お礼のお金をさらに積み上げることも考えたのですが、医者の
立場を考えるとあまり過激な金額は反って彼をしり込みさせることになると思いました。それで、
次の手を考えたのです。

最初の出会いから言葉の端々に見せる医者の優しさ・・、医者が好意以上の感情を寄せていること
を女の感性が察知していました。『夫を助けたい』、『出来ることは何でもする』その強い思いが
後押しして、女の本能が自分の体を差し出す作戦を思いつかせたのです。

着ているシャツが少し汚れていて、ズボンの折り目が通っていない医者の服装、千春を女と見てい
る熱い視線等々、医者が独身か、あるいはあまり妻から大事にされていないと察知して、〈この男
なら・・、この作戦を実行しても、失敗はないだろう・・〉 と女の本能で判断していたのです。
そして、最悪のケースでも、つれなく断られて、恥をかくことはないだろうと踏んでいたのです。


一方、医者は何と答えてよいか、全くアイデアがないのです。頭の中が真っ白になり、何も考えら
れない状態なのです。それでも、女から誘われている事実は医者の男心を大いにくすぐっていて、
嫌な気分ではないのです。

デートの途中、恋人から突然『私を自由にしてもいい・・』と言われても、その恋が真剣であれば
あるほど、男は少し引きます。女を大切に思うからです。まして今日初めて会った女から・・、そ
れも瀕死の傷を負った患者の妻から誘われているのです。酒の席などでこの言葉を聞かされれば、
男なら誰でも戯言の一つも出し、それなりの対応が出来ると思いますが、医者は当惑の気持ちを通
り越して、ただ、ただ、驚いていました。それと同時に、凄まじい女の気迫に圧倒されているので
す。

『私の命を差し上げます・・・』、女がそう言っていると医者は受け止めていたのです。言葉の内
容はこの上なく隠微で、猥雑な誘いの言葉なのですが、そこにはぎりぎりまで追い込まれた女の覚
悟の気持ちがほとばしり出ているのです。

一目見た最初から好意以上の感情を抱いたきれいな女です、そんな女から誘われれば、男の劣情を
刺激されなかったと言えば嘘になります、しかし、浮いた気持ちになることなど到底できなかった
のです。あいまいな言葉を残し、その場から逃げるように去っても良かったのです。しかし、医者
は逃げませんでした。その場に留まり、鋭くも、悲しい女の言葉をしっかり受け止めていたのです。