フォレストサイドハウスの住人達(その11)
47 フォレストサイドハウスの住人達(その11)(359)
鶴岡次郎
2015/09/02 (水) 11:54
No.2738
一通り患者の様態説明が終わり、女もそれなりに納得しました。担当医として患者家族への説明は
全て終わったのです。それでも、医者は椅子から立ち上がろうとしません。忙しい身であるはずで
すが、もう少し女と会話を楽しむつもりになっているようです。どうやら、看護師がしびれを切ら
して迎えに来るまで、女とこの部屋にいると決めているようです。

「ところで・・、奥様のお名前は・・、
そうですか千春さんと言うのですね…、
それで納得できました・・・、

患者さんが夢うつつで奥様の名前を何度も呼んでいました・・。

夢の中に出て来た奥様に励まされて、頑張ったのですね…、
離れていても、奥様の励ましが彼を元気づけたのだと思います・・、
ここまで、本当によく頑張りました・・・」

医者の優しい言葉を聞いて大粒の涙があふれ出ています。大粒の黒い瞳が濡れて光っているのです、
前髪が数本白い額に掛って揺れています。そっとほほをぬぐう花柄のハンカチが見事に女の表情に
マッチしているのです。医者は仕事を忘れて女の仕草に見惚れています。

「並の患者さんなら・・、あの体で・・、あのような長旅をしたら・・・、
それこそ・・・、大変なことになっていました・・・。

いろいろ事情はあったと思いますが、あの移動は少し無謀でした・・・。

ああ・・・、もしかすると・・、
奥様はあの無謀な移動をご存じなかったのでしょう・・・」

「・・・・」

はじめから疑問に思っていることを医者はストレートに聞いています。親族であれば患者がどんな
にそれを望もうと、死につながりかねない、あのような無謀な移動を認めるはずがないと思ってい
るのです。

周りの関係者がある事情で・・、多分それは組織の利益を左右する事情があって・・、患者を日本
へ運ぶ必要が出て、むりやり患者を移送したと医者は疑っているのです。そうでなければ説明がつ
かないと医者は思っているのです。

「もし・・、人に言えないことで悩んでおられるなら・・・、
私で良かったら・・、話してみませんか・・・、
これでも医者と言う職業柄だとおもいますが、
口は固い方で、言うなと言われれば、殺されも口を開きません・・」

「・・・・・・」

この質問を受けて女はただうつむいて返事に困っている様子を見せています。

「いや・・、これは余計なことでした・・・・」

担当医はしゃべりすぎたことを恥じて慌てて口を閉ざしています。

瀕死の病床で妻の名を呼び続けた夫、夫を救うためなら何でもやり遂げようとする妻、これほど想
いあっているのに、瀕死の夫の入院に妻は立ち会うことが出来なかったのです。そして傷跡の異常
さを考え合わせると、何か深い事情が二人にはありそうだと医者は考えていました。出来ることな
ら、その訳を知り、女の力になりたいと思っているのです。しかし、今は、そこまでは聞き出す時
ではないと思い直しているのです。

ちなみに医者はいまだに独身です。何度か恋をしたことがあったのですが、恋の道より医学の道を
優先したのが災いして、女達は医者の元から離れていったのです。目の前に居る女が幸せになるの
なら、ひと肌脱いでも良いと医者は珍しく熱い思いを抱き始めているのです。男女の心の動きに敏
感な女がこんな医者の感情を察知しないはずがないのです。

「先生・・、お気遣いいただきありがとうございます…
詳しくはお話しできないのですが・・・、
夫が・・、命を懸けて働いてくれたおかげで・・、
私・・・、
今は・・とっても幸せです、ご安心ください・・・」

夫の異常な入院に立ち会うことが出来なかった妻の事情を知ろうと、立ち入った質問をする医者が、
好意以上の感情を持って接してくれていることを敏感に察知して、女は感謝の気持ちを込めて医者
をじっと見つめていました。医者は眩しそうに女の顔を見て、破顔して口を開きました・・。

「そうですか・・、それは良かった・・・、
あなたのような方が苦労するのは見たくないですからね…、

では・・、これで・・・
ああ・・、今眠っていますが、意識はしっかりしていますので・・、
目を覚ましたら顔を見せてあげてください。きっと喜ぶと思います・・」

「ハイ・・・」

話題を変えた医者を見て、女がホッとした表情を浮かべ、軽く頷いています。入院の経緯をそれ以
上追及して欲しくないのです。