フォレストサイドハウスの住人たち(その8)
17 フォレストサイドハウスの住人たち(その8)(205)
鶴岡次郎
2014/08/04 (月) 14:11
No.2566

夫が頭を下げて妻を抱いてくれと頼んでいるのです。そして佐王子が今でも千春を愛しているのは
彼の態度を見れば判るのです。千春にしても佐王子に抱かれるのであればそれほど大きな抵抗を感
じないであろうと浦上は考えているのです。

これだけ条件が整っているのに、佐王子は困惑の表情を浮かべて、ただ黙り込んでいるのです。佐
王子の沈黙の意味を浦上は捉えかねていました。

「ご迷惑だと思いますが、曲げて了承願いたいのです。佐王子さんであれば、千春も安心して身を
任せることが出来ると思います。私も、佐王子さんであれば、悔しいことは悔しいですが、なんと
か我慢できる気がするのです。他の男と千春が関係することは・・、この切羽詰まった状況で気の
小さい男だと思われても・・、なんとしても我慢できないのです」

浦上の話はほとんど佐王子の耳には入っていませんでした。日頃から人の世の動きを読むのに長け、
臨機応変に戦略を立てる佐王子にしては珍しく、今回の浦上の提案は寝耳に水の思いだったのです。

浦上の申し出を予想すべきだったと、佐王子は今になって、自身の迂闊さを責めているのです。そ
して、このような簡単な状況判断が出来なかった理由が佐王子には良く判っているのです。予想で
きなかったその事実より、浦上の依頼を予想できなかった理由を悟り、佐王子にしては珍しく、狼
狽え、慌てふためいているのです。

〈俺としたことが…、
浦上さんの依頼を全く読めていなかった・・。
状況を追って行けば浦上さんの出方は簡単に読めたはずだ…、

『千春さんを抱いてくれ・・』と頼まれて、こんなに有頂天になっている。
千春さんへの思いで、俺の勘が完全に狂っていたのだ・・、
俺も、意外に若いところが残っているようだ…〉

自分の中に残っている若さを自嘲しながら、佐王子は全身に湧き上がる興奮を楽しんでいました。
こんな思いを持つのは本当に久しぶりなのです。そして、今更ながら千春を思う自身の気持ちの強
さ、真摯さに気づき、我が身と、心の若さに驚き、そして同時に喜びを噛み締めていたのです。

「私はもう直ぐ55歳になります。若い頃の様に無茶は出来ない体だと思うことが最近多いのです。
商売の方もむやみに間口を広げないよう注意しております」

佐王子が珍しく気弱な発言をしています。申し出を断られるのではと、浦上は心配そうな表情で佐
王子を見ています。

「良いでしょう・・、他ならぬ浦上さんと千春さんのことです。
私でお役に立つようなら、精いっぱい頑張らせていただきます・・・」

「ありがとうございます・・・」

佐王子が軽く頭を下げ、浦上が深々と頭を下げています。これで男二人の話し合いは完了したので
す。