フォレストサイドハウスの住人たち(その7)
10 フォレストサイドハウスの住人たち(その7)(174)
鶴岡次郎
2014/05/28 (水) 14:14
No.2531

駅が近づき、別れの時を察したのかそれまで聞き役に回っていた塚原夫人が少し改まった口調で話
しかけてきました。ここまでの道々、たわいのない世間話をする千春の話が面白いので、夫人は
ずっと笑い通しだったのです。

「今日お会いできて、
千春さんともこんなに親しくなれて、本当に良かった・・」

「私こそ・・・、理恵さんのお母様にお会いできて本当に良かったと思っています。
出来ることなら、写真で拝見しただけの理恵さんにもお会いしたかったと思っています」

理恵の名前が出て、ほんの一瞬の間ですが、夫人の歩調に乱れが起きました。ここまで二人の会話
に理恵は一度も登場していなかったのです。

「あら・・、こんなこと言ってはいけなかったですね・・、
私、6人兄弟の末っ子で親のしつけが行き届いていないせいで、
一般常識に欠けるところがあると良く言われるのです・・」

「いいえ・・、そんなことはありません…、理恵のことを話題にしないよう、
三郎さんと千春さんがお心を使っていただいているのが良く判っていました。
若い方々に余計な気を遣わせてしまって、私達、申し訳ないことをしたと思っているのです・・」

夫人が笑顔を見せています。

「理恵は一人っ子で、亡くなって二年間ほどは、あの子がいないのがどうしても信じられない気持
ちになっていました。最近になってようやく、理恵のことを平常心で話せるようになったのです
よ・・・。それでも、5年経った今でも、毎月あの子の月命日には、私達ここへ来ているのです。

でも・・、今日、こうして千春さんと思いがけず楽しい時間を過ごせましたし、
三郎さんとも久しぶりにお会いできて、
彼が新しい生活を始めることを確認できました。

私達もいつまで理恵の思い出を追っていてはいけないと思いました。
理恵のいない人生を新しく拓くべきだと思いました。
ここへ来るのは、お盆と、命日の年二回にしようと思っています」

「・・・・・・」

千春は黙って耳を傾けていました。

「千春さん…、私からお願いがあります…。
よろしいでしょうか・・」

「ハイ・・・」

「いろいろ事情はあると思いますが、
結婚生活では赤ちゃんを作ることを最優先してほしいのです。
こんなことを言うのは、おせっかいを通り越して、
失礼極まりない行為だと十分承知しているのですが・・・、
言わないではいられないです・・」

少し涙を浮かべて、塚原夫人は真剣な表情を浮かべて話しているのです。

「ハイ・・、奥様のお気持ちを大切に受け入れます。
私たちも、そうはいっても良い年ですから、子供は早く造りたいと思っています。
もし・・、幸運にもそうなったら、真っ先に連絡します…」

理恵はT大の理系学部を卒業した才媛で、結婚後もつくばの国立研究所で遺伝子の研究を続けてい
たのです。そうした生活環境ですから、どうしても子供のことは先送りされていたのです。

〈せめて・・・、孫を残してほしかった・・・〉

これが塚原夫人の正直な気持ちなのです。そんな気持ちがつい、千春への失礼な忠告になったの
です。勿論、その気持ちを千春は十分理解していました。