フォレストサイドハウスの住人たち(その6)
29 フォレストサイドハウスの住人たち(その6)(159)
鶴岡次郎
2014/04/20 (日) 14:55
No.2510
千春がそっと右手を伸ばし、浦上の左手をつかんでいます。それに気が付いた男が右手を女の手の
上に載せています。男と女は黙って視線を絡ませ会っています。女の瞳に涙があふれ、水滴が頬を
伝って、きれいな顎から滴り落ちています。男がハンケチを出して、女の頬をぬぐっています。女
が微笑み、男が笑顔でその微笑みに応えています。

目の前で繰り広げられる控えめな男と女の行為を佐王子は黙って見ていました。この喫茶店に入って
から初めて・・、いや、おそらく彼の生涯でも数えるほどしかないと思いますが、胸の内をあからさ
まに表情に表わしているのです。今にも泣きだしそうな、悔しさを抑えきれないような、それでい
て、慈愛を含んだ、あきらめを感じ取った、満足げな表情を浮かべているのです。

二人にしばらくの時間を与えて、頃合いを見て佐王子がゆっくりと口を開きました。

「私の出番は終わったようなので・・、
ここで失礼します・・」

「アッ・・・・佐王子さん・・、
えっ・・、帰るのですか・・、
そうですか・・・、本当にありがとうございました・・」

二人の世界に入り込んでいた男と女は、今更のように佐王子の存在に気が付いて、びっくりして佐
王子を見ているのです。さすがに、千春があわてて、感謝の言葉を告げています。千春の慌てた様
子が、とってつけたような感謝の言葉が、佐王子の胸にぐさりと突き刺さっていました。

〈俺の存在を忘れるほど舞い上がっているのだ・・、
いいよ・・、いいよ、
俺のことは忘れてくれ・・、
それがお前の幸せにつながるのだ・・〉

愛に溺れた男と女は時として、周囲にいる善良な者を知らず知らずに傷つけることがあります。こ
の時の佐王子がまさに愛する二人の犠牲者なのです。勿論二人はそのことに気が付いていません。
佐王子も傷つけられたそぶりさえ見せないのです。

「浦上さん・・、
今日は失礼なことを数々申し上げましたが、
これすべて千春を愛するが故に口に出したことです。
浦上さんであれば私の気持ちはお分かりいただけると思います・・・。
では・・・、これで・・・」

いろいろ言いたいことはあるはずですが、好敵手に敗れた侍の様に、恨み言も、捨て台詞もなく、
むしろ、あっけないほどあっさりと別れの言葉を言い切り、浦上に一礼して、佐王子は立ち上がろ
うとしました。

「佐王子さん・・!
チョッと待ってください・・・」

浦上が声をかけました。立ち上がりかけた腰を下ろし、佐王子が浦上の顔を見ています。一呼吸を
置いて、浦上が口を開きました。一言、一言、言葉を選びながら、慎重に語り始めました。

「佐王子さん・・、一つ教えてください・・・・
売春のこと・・、貴方が言わなければ・・、
僕はそのことを永久に知ることはなかった。

あなたの愛人だと・・。
それだけ言えばすむ話ではなかったのですか・・・」

「確かに、私が言わなければ、千春さんも自ら進んで自身の恥を話すことはしないでしょうから、
秘密は表に出ることはなかったと思います。

それなら、何を好んでそこまでさらけ出したのか・・・・。
当然の疑問ですね…、さすがは浦上さんです・・」

佐王子が一応感心して見せています。

「私も、随分と考えました・・。
結局、全てを話すことにしたのです・・・。
それは、千春の・・、いえ・・、千春さんの幸せを考えた上でのことです」

「千春さんの幸せを考えた上ですか…、
僕にはそうは受け取れませんでした・・・。

はっきり申し上げると、最初は僕に対する嫌がらせだとさえ思いました。
私を千春さんから遠ざける作戦だと受け取りました。

そして、今回の三者会談が佐王子さんの演出だと判った今でも、
千春さんの過去をそこまでさらけ出す必要はなかったのでは・・・、
この思いは捨てきれません・・・・」

何か感じるところがあるのでしょう、浦上が執拗に質問を続けています。佐王子も浦上の質問の狙
いをある程度理解している様子で、かなり慎重に構えています。どうやら男二人の勝負はまだ終
わっていない様子です。