一丁目一番地の管理人(その29)
20 一丁目一番地の管理人(438)
鶴岡次郎
2012/07/16 (月) 13:16
No.2269
お腹が目立たない内に全てを処理しなければいけないのです。喜美枝に許された時間は僅かしか
有りませんでした。伍台には、浮気が本気になったことを告げ、離婚話を切り出したのです。勿
論、伍台も喜美枝の両親も反対を通り越して、ただ当惑するだけでした。それでも、喜美枝は頑
なに離婚を望みました。

男が出来たことが離婚を決意した原因だと理解しながらも、喜美枝の態度に浮ついた様子が微塵
もなく、むしろ思いつめた悲壮感が漂っているのを不審に思いながら、伍台は喜美枝の希望を受
け入れることにしました。二人の子供の親権も喜美枝に譲ったのです。

一方喜美枝は伍台と離婚話を進めながら、アダモとも別れる準備を始めていました。そんな矢先、
アダモの店が倒産したのです。傷心を抱えてイタリアに帰るアダモを喜美枝は冷静に見送ったの
です。もちろん、この時、喜美枝のお腹の中に彼の子が宿っていることをアダモは知りませんで
した。

身篭った子は一人で育てる決意を喜美枝は固めていました。しかし、不幸は続くもので、アダモ
が国へ帰った一ヶ月後流産してしまったのです。この時点で初めて喜美枝は母親だけに妊娠の事
実を告げ、助けを求めたのです。

こうして、アダモとの恋は喜美枝の心と体に大きな傷を残して終わりました。そして、喜美枝は
生涯を費やして、伍台への罪を償う決意を固めていたのです。

「由美子さんのようにしっかり避妊を心がけていれば、
伍台との決定的な破局だけは避けられた可能性が高いと思います。
誰を恨むことも出来ません。全て、私自身の責任です・・・」

由美子が対処したように、喜美枝も避妊を心がけてさえいれば、自ら別れ話を切り出し、強引に
離婚劇を仕立て上げる必要がなかったのです。アダモとの浮気だけに止めておけば、伍台との仲
が決定的な破局に追い込まれることは防げたかも知れないのです。

「未だ若かった由美子さんが、良くそこまで配慮出来たのね・・、
誰かに教えられたと言っていたけれど・・」

「ハイ・・・、
小学5年の時、叔母から教えられました・・」

20年以上前のその日の出来事を由美子は昨日のように覚えているのです。お祝いの赤飯と鯛の
姿焼きが準備され、叔母ゆり子と父、そして由美子の三人でお祝いをしたのです。笑みを浮かべ
た父の瞳が濡れていたのも由美子はよく覚えています。そして、夜、由美子の部屋を訪ねてきた
叔母が、珍しく改まった口調で教えてくれたのです。

「おめでとう・・、これで由実子も一人前の女だよ・・。

女はネ・・・、
子供を産むことが出来るの・・、
これは神様が女性に与え下さった最大の能力だと思う。

それだけに、この能力の使い方を間違えると、
女性は立ち上がれないほどのダメージを受けることになる。

妊娠、出産は女の意志で決めること。
このことだけは、女として絶対忘れないように・・・
亡くなったお姉ちゃんに成り代わって、このことだけは伝えておきます・・・」

鶴岡と結婚して、二人の娘を授かり、その後複雑な男性関係を展開することになったのですが、
由美子はいつでも叔母、ゆり子の言葉を忠実に守り続けているのです。

「そう・・・、
幼い由美子さんにそのことを教えた叔母さんも、
その言葉を忠実に守っている由美子さんも、立派ね・・

私は高価な代償を払って、そのことの大切さを教えられたけれど、
由美子さんは、小学生の頃からその心構えを作っていたのネ・・」

何度もうなづきながら喜美枝がつぶやくように言いました。そしてしばらく頭を垂れて、何事か
を考えていました。電話の向うで由美子は喜美枝の次の言葉をじっと待っていました。

やがて、意を決した表情で頭を上げた喜美枝が、ゆっくり口を開きました。

「私・・、必死で子育てをしてきました。
伍台から託された子供達はそれなりに立派に成長してくれました。
これで許されたとは思いませんが、
このままで、女を終えたくない気持も強いのです・・」

それまで、打ちのめされたようにうな垂れていた喜美枝がようやく立ち直ったようです。由美子
のアドバイスに何かをつかんだ様子もうかがえます。また、長い間隠し通した妊娠のことを由美
子に告白したことも彼女の肩の荷を降ろす効果があったようです。彼女の声に張りが出ているの
です。(1)